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この内容は【エスペラント100 の効用】からいただいております。
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※上記【エスペラント100 の効用】は現在リンクが切れています
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エレン・ビヤリストック(ヨーク大学/トロント大学)
二つの言語を話すとアルツハイマーや認知症のリスクが軽減される。
治療中のアルツハイマー患者のうち、2か国語を話す人たちの発症は 4.3年遅かった。
2か国語を話す人の脳がより活性化されているから、と考えている。
1988年夏、ロッテルダムでのエスペラント世界大会の開会式で、ハンフリー・トンキン教授は大会参加者に対して、'Bonvenon al via hejmo!' (あなたのうちにようこそ) と呼びかけた。
会場から一斉に拍手が沸き起こった。
会場にいた私は思わず目から涙があふれでた。
エスペラントを勉強してきて本当に良かったと思った。
藤本達生 翻訳家
"気楽"と言う感覚は、エスペラントが中立語だという事実にある。
どの国の言葉であれ、いまや世界語になったという英語でさえ、生まれながらにしてその言語を話す、いわゆる”ネイティブ”といわれる人たちがいる。
この人たちの前に出ると、それ以外の人は、絶対に対等な立場で話すことはできない。
例えば、日本語にしても、日本人の私たちは”ネイティブ”として、考えなくても日本語が話せる。
それに対して、他国の人は"考えながら"何とか話すというのが実情であろう。
エスペラントの場合は、一般的に、後から習った中立語なので、上手、下手を越えて"お互いさま"という感覚がある。
そのことが"気楽”ということにつながる。
ジョエル・ブロゾフスキー
わたしが日本人と、あるいは、誰か別の母語が英語でない人と、英語で話す場合、いつもわたしは必ずその言語の熟練者としての位置に立つことになります。
相手の人がどれだけ英語を勉強していたってこの関係は変わりません。彼、あるいは、彼女は、必ずより低い立場で話すことになります。生徒が先生に対するように、あるいは、部下が上司に対するようにです。
もし、それとは逆に、わたしが相手と相手の人の言語で、例えば日本語で、話をするとしたら、状況は同じですが立場は逆転することになります。
わたしは低い立場にいて何とか自分を分かってもらおうと、一生懸命に努めます。その時、相手は熟練者の立場、すなわち教師の役割を演ずることになります。
そういった不平等は二人の友情の妨げになります。
こんなことは不公平であり、円滑であるべき人間関係において、そして、特に友情をはぐくむ関係の上で、多かれ少なかれ微妙な障害をもたらすことになります。
友人同士は、少なくとも心と心のつながりということで絶対に平等でなければならないのです。
しかし、使用される言語のせいで強く不平等さが押しつけられるようだと、両者の間で平等であるという感覚を維持することが困難になります。
Boris Kolker、現在65歳
質問「あなたは今の大変活動的なエスペラント運動をやめにして、自由になった時間を何か他の事に使おうと考えたことはありませんか?」
答え「たぶん、私は35年後にそうすると思います。でも、それまで長生きする必要がありますね。
ドイツでなされた統計では、エスペランティストは普通の市民より長生きするという結果が出ています。
不老長寿を約束してくれるエリクシルを飲むのをなぜやめる必要があるのでしょう?」
コラム「一月一話」薄明領域(Twilight zone)鶴見俊輔
ディヴィド・リースマンが日本にきたとき、私にはうつ病があったので、会う機会をうしなった。京都の学者たちの会見の様子を、あとで桑原武夫からきいた。リースマンは、鮒ずしがとても気にいったそうだ。
同席した日本人の学者たちが、英語を使ってリースマンに質問し、またリースマンの質問に直接こたえたなかで、梅棹忠夫は、通訳を介して受け答えをした。
どうして彼だけが通訳をとおしたのかというリースマンの質問にこたえて、「私の考えは、私の下手な英語ではうまく言いあらわすことができません」
これは、英語についての謙遜と思想についての自信の両者をそなえた表現である。
桑原さんをとおしてつたえきいたはなしで、ほんとうかどうか保証しがたいが、英語で言われると、ピンでとめられたように言葉の意味が定着されるような錯覚が当時の日本にはあった。その流れに対するおだやかな抵抗が感じられる。
梅棹忠夫
国際的とはどういうことであろうか。日本では、国際人というのは英語をかたり、アメリカ人の友人をもっているひとのことだという場合がおおい。
しかし、ほんとうにそうだろうか。世界には国がニ百ちかくもあり、言語の種類は三千ほどもある。
そのなかで、なぜアメリカ一国が突出し、英語だけが特別視されるのであろうか。
わたしたちの仲間には世界の各地で生活して、さまざまな言語を習得してきたひとがおおい。
そのなかでは、アメリカ留学組がいちばん国際性に欠けるというのが仲間うちでの評価である。
アメリカ留学組は、日米関係だけを国際関係とかんがえる傾向があるからである。
英語の絶対的優越性を信じてうたがわず、他の言語の価値をみとめないし、まなぼうともしない。英語だけですべてが処理できるとかんがえたがるのである。
この傾向は留学生だけでなく、アメリカ人全体にみられる。
ヨーロッパの人たちは、はるかに柔軟である。人間の言語的世界の多様性をよく認識しているし、自国語をもって世界じゅうのことを処理できるとはかんがえていない。かれらは言語的多元性の世界にすんでいる。
わたしは、職業がら、外国からの来客に接することがおおい。わたしは外国語はある程度はなせるけれど、外国人と接するときにはいっさい日本語でとおしている。へたな外国語で誤解をうけることをさけるためである。かならずその言語に練達な通訳をたてることにしている。
ちかごろは外国からのお客は、原則として通訳をつれてくるようになった。
アメリカ人も例外ではない。この点はずいぶんかわってきた。以前は、知識人で英語もはなせない人間がいるはずがない、という態度であった。
通訳もつれずにきて、わたしに英語をしゃべることを強要したのである。
この点はいちじるしく改善された。わたしが英語をいっさいしゃべらないというのも、当然のこととしてうけとめられるようになった。わたしはあえて、英語はまったくわからないことにしているのである。
人間の言語的世界の多元性と相対性を英語国民にも認識してもらうために、今後もわたしは英語をしゃべらないでおこう。
世界には英語をしゃべらない知識人が実在することを実感してもらうためにも。
わたしが外国人と直接に自分ではなすことばは、エスペラントだけにかぎっている。エスペラントならどの言語を母語とするひととでも、優位劣位の関係におかれることなしに、じゅうぶんに意思を通じあえるからである。
言語学者 田中克彦(一橋大学名誉教授)
今朝、ホテルを出て、この万博会場へ歩いてくる途中で、胸に緑の名札(エスペラントのシンボル)をつけて歩いていらっしゃる方をたくさん見ました。
皆さん、とても自信を持ってしっかり足を踏みしめて歩いていらっしゃる。
わたしは、とてもうらやましいと思いました。
エスペランティストは、皆さん、とても美しい。どうかこれからもエスペラントをお続けください。
皆さんのなさっていることは、とても大事なことです
クロード・ピロン
エスペラントを話す時には、あなたは平らなところをまっすぐに走っている人のように感じます。
一方、他の言語(エスペラントのように、構造が規則的にできている数少ない言語をのぞいて)を話す時には、あなたは平地ではなく、急な坂道がいっぱいあるところを走っているように感じるでしょう。
登ったり、降りたり、ジグザグの道をたどったり、ヘアピンカーブだったり、うっかりすると落っこちてしまいかねない穴がいたるところに開いていたり。
時には、乗り越えないと向こう側へは行けないような岩がじゃまをしていたり。
もしも、その言語を流暢に話せるとしたら、それはあなたが一生懸命その言葉を練習して困難な場所を暗記し、そのつどそれを乗り越えるうまい方法を覚えたからです。
あなたは、上に述べたような場所を毎日走って練習したランナーだからです。
たとえ、人びとがあなたのスピードを賞賛しようとも、そんな場所を走れば、方向を変える必要もなく障害物もない平地を走るのに比べ、脈拍は激しくなり、息づかいもひどくなり、疲れはてしまいます。どれほど練習をつもうとも、エネルギーを余計に使わなければならないのです。
クロード・ピロン
なぜ、エスペラントがいまだに存在しているのでしょうか。歴史的に見て、生きのびる機会よりも死に絶えてしまう機会の方が多かったというのに。
それは、絶えずエスペラントをやろうという人があらわれ、また、ますますそういう人が増えているからです。エスペラントのすばらしさに感心し、それを愛する人が。
その人たちは、エスペラントの花を咲かせるために途方もないエネルギーを捧げます。
では、エスペラントの何がそんなに人を惹きつけるのでしょうか。
私は、その主因はエスペラントの体系が創意豊かであるからだ、と確信しています。
ジョン・ウエルズ教授(イギリス、音声学)
エスペラントを勉強した人と、英国語を第2外国語として勉強した人を比較してみよう。
エスペラントを勉強している人が、新しく manĝi (食べる)という動詞を覚えたとする。すると、彼は食べるという行為は manĝo であり、食物は manĝaĵo と言えば良いことをすでに知っている。
一方、英国語を勉強中の人は、 eat という動詞を覚えても、別に食事という名詞 a meal、食べ物という単語 food をそれぞれ覚えなければならない。
食べるという行為のくりかえし、あるいは継続をあらわす単語については、両方の学習者にとって大差はない。すなわち manĝado と eating である。
エスペラントの勉強を始めた人は規則的に接辞をつけることによって manĝejo(食堂)、manĝujo(えさ箱)、manĝilaro(食卓用ナイフ・フォーク・スプーン類)と意味を広げることができる。
英国語の学習者はそれらの単語に対して dining-hall か canteen、manger、cutlery と crockery を覚えなければならない。
エスペラントを始めた人は、さらに続けて manĝebla(食用に適する), manĝinda(食べる価値がある), manĝenda(食べねばならない)が分かり、彼自身は今 manĝema(食べたがり、お腹がすいている) かもしれない。
英国語では manĝebla に対して、規則どおりの eatable と、例外的ながらよく使われる edible がある。manĝinda に相当する単語はない。
manĝema に対してはつづりがかけ離れた hungry が相当する。
エスペラントを話す人は誰でも、さらに続けて次のような単語を簡単にやすやすと使うことがてきる。manĝeto、manĝeti、manĝegi、manĝaĉi。
英国語では、それぞれ次のように全く新しい4個の言葉を覚えなくてはいけない。すなわち a snack、to nibble、to eat heartily、to guzzle と。
...
...'Vojaĝo al esperanto-lando (nova eldono)'--Boris Kolker; p.196. 「エスペラント国への旅(新版)」
ジョエル・ブロゾフスキーさんが語るエスペラントの魅力(その1)…「友情」(Amikeco)
長い旅行の間で、わたしはこんなことに気がつきました。
英語で話しかけてくる人は、「わたしという人間に関心があるのでなく、わたしの文化に興味があるのでもない」と。
その人たちはみんな、お金に興味があるのです。わたしに何かを売りつけたいとか、わたしと話すことで英語を勉強し、より良い教育を受けて、もっと高い給料を得たいとか、そんな理由で。
正反対に、わたしとエスペラントで話そうとする大部分の人は、わたしという人間に興味があり、わたしの文化に興味を持っていました。
そういう人たちの多くは、わたしと友達になりたいと思っており、実際、その多くは今でもわたしの友達です。
魯迅
エスペラントはずっと私には楽しみだった。およそ20年前に、私はエスペラントを一生懸命勉強した。
理由は簡単だ。第一に、誰でも、エスペラントのおかげでいろいろな人たちを、特に抑圧されている人たちを理解することができるから。
第二に、これは私の意見だが、私のような職業の場合には特にいえることだが、この国際語のおかげで、あらゆる国の人たちの文学作品を読むことができるから。
そして、最後の、第三の理由は、エゴイズムや偽善とは縁のない、道徳的に優れた著名なエスペランティストを、私自身、たくさん知っているからだ。
世界大会などで、集まってくるエスペランティスト同士、遠足のバスに隣同士で乗り合わせたとき、大会会場で隣同士になったとき、懇親会で隣同士になったとき、
その隣の人と話す前から、同じエスペラントをやっているということだけで、お互いに安心感のようなものを抱くのは、この「優しさの伝染」なのだと、
山田洋次監督の話を聞きながら気づかされた。エスペラントが平和の言葉である所以である。